BSドキュメンタリー バシャール・アサド 〜独裁と冷血の処世術〜(2016)

2009年アサドはフランスのTVの取材を受けていた。内戦勃発の2年前である。夫人をエスコートして高級車でコンサート会場へ向かう。取材に対しミレイユ・マチュー、シルヴィ・バルタンが好きと言う。シリアは安全な国と言う。

イギリスで研修医をしていたアサドは兄と父の死によってシリアに戻り大統領を継ぐ。この時点では西側首脳からの評判は良く、シリアの政治改革を期待されていたが尻すぼみとなった。独裁者の姿を現したアサドはまずレバノンに噛み付く。レバノンの前首相ラフィーク・ハリリはシリア軍の撤退を主張していた。元シリア副大統領のアブデル・ハリム・カダムはこう証言する。「2005年のある日バース党の会合に出席しているとアサドが突然やって来て『ハイリはシリアの敵だ。フランスとアメリカの操り人形だ』と言ったのです。その三日後ハリリは暗殺されました。」

2005年2月14日ベイルートで爆破テロが発生しハリリを含む20人以上が犠牲となった。直ちにアメリカは大使を召喚、シラクもシリアに背を向ける。アサドはイランに接近し、プーチンと防衛協定を締結する。反欧米、反イスラエルの姿勢が明らかとなる。

国民に疎まれていたアサドはフェイスブックを開設し家族の写真をアップする。テロに苦しんでいたフランスに接近する。サルコジは彼に賭けたのである。フランス革命記念日にも出席する。アメリカとも交流を回復し大使も元に復した。国民の支持も戻り2010年頃は順風満帆だった。

2011年1月チュニジア、エジプトで反政府デモにより政権が倒れると、シリアでもあっという間に大規模なデモが起こった。デモは軍により鎮圧される。すると反体制派との間に内戦が勃発した。カタール、トルコ、サウジアラビアが反体制派に加勢する。本ドキュメンタリーでは内戦の映像を見ることができる。アサドによる国民大虐殺を受けてオバマ大統領が記者会見でこう述べる。「アサド大統領は正統性を失っている。国民を内戦に巻き込むのをやめて退陣すべきだ。」サルコジ大統領もこう述べている。「欧州理事会はシリアの現状を厳しく糾弾している。私見だがアサド大統領は辞任すべきだ。」

2012年政府軍は市街地の爆撃を開始した。これによって数千人の市民が死亡したと言う。国外に逃れた数百万人は難民となる。国連欧州本部は安保理常任理事国と周辺国による国際会議を開きアサドを除外した暫定政府の樹立を目指す。ヒラリー・クリントン国務長官は我々はシリアの新政権樹立を支援する事に合意したと発表する。だがプーチンがこれに異を唱え妨害する。米国とフランスがシリア国民連合自由シリア軍の支援を開始する。武器の供与と軍事訓練である。

これにより劣勢となったアサド側は反撃を開始、2013年8月21日グータの街に化学兵器爆弾が落とされ数百名の市民が犠牲になった。フランスと米国が軍事介入を準備するがオバマがこれを中止させる。シリアが混乱に陥りイスラム過激派が政権を取るのを恐れたのである。アサドはこれを逆手にとってISに敵対する立場を打ち出す。すると鬼畜なISと比べアサドが穏健に見られるようになったのである。さらに2015年10月アサドがロシアを電撃訪問し介入を求めるとロシア軍による空爆が開始された。これによって反政府軍の占領地域を次々に取り返した。

こうしてバシャール・アサドは反政府軍とISを撃退し戦争犯罪人と言われながら政権の維持に成功した。老獪なプーチンの見解はこうである。「確かにアサドは取立てて民主的ではない。だが誰に替えたって変わりないじゃないか。」まあアフガニスタンの有り様を見ればそれも首肯ける。この成り行きにフランスはただ傍観するのみで米国はアサドの追放を撤回、ひとまず停戦が実現した。