東洋文庫 アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝(1849)

イギリスのTV番組に倣って「マラッカ7歳になりました」方式で書く。人は7歳までに作られるという伝の検証である。

アブドゥッラー・ビン・アブドゥル・カディール1797年生まれ、マラッカ在住。曽祖父はイエメン出身という。父の名はシャイフ・アブドゥッル・カディール、彼は裕福な商人で英国人にマレー語を教えていた。アブドゥッラーは四、五歳までは病弱で、当時の風習に従って他人の元で育てられた。元気になると家に戻り、六歳までは祖母が校長を務める学校に行って授業を聴いていたという。

七歳 カンポン・パリのコーラン学校に入学する。アブドゥッラーは先生から厳しい体罰を受けながらも、人より早く文字が書けるようになった。その頃のコーラン教育についてこう記している。

コーランの勉強を習わせに子供を連れて来る時は、勉強を始める子供の父か母が、一鉢の檳榔の実と、一皿の砂糖菓子を持って、子供と一緒に先生に挨拶に来る習慣がある。そして両親はこう言うのだ。「先生、私は二つのことだけお願いしておきます。一つはこの子の目を、二つはこの子の手足を傷つけないでください。それ以外はあなたの好きなようにしてください。」(略)砂糖菓子は子供たちに分け与えられ、お金が先生に渡され、びゃくだんの花がくばられる。》

コーランの暗唱が完成の域に達すると、盛大な割礼の儀式が行われてアブドゥッラーは一人前と認められる。父の命で2年6ヶ月の間タミール語を勉強させられる。その後は人名、父の言葉を書かされコーランの筆写までできるようになった。11歳のときヒンディー語を習得するために城塞の中に住み三、四年間インド人に言葉を教えながら学んだという。今度はマレー語も習得させられることになり、さすがのアブドゥッラーもギブアップして泣いたという。だがついに、父の代わりに手紙・保証書・委任状・遺言状を書けるようになり父を喜ばせた。

13歳 アブドゥッラーは東インド会社ラッフルズに最年少の書記として雇われる。彼は書記として色々な人物や事件を見聞きし、それらをこの自伝に詳しく記している。

21歳 この頃結婚したという。マラッカがオランダに返還されることになり、接収前にラッフルズらはシンガポールを次の拠点とし、移動する。アブドゥッラーも随行する。

26歳 ラッフルズがヨーロッパに戻る事になり、トゥアン(アブドゥッラーの呼び名)は次の就職のための紹介状の手紙と25リンギットのお金を受け取る。その後は宣教師トムスン氏の仕事をしたり、マレー語の教師をする。シンガポールの猛暑で水腫になったトゥアンはモーガン医師の治療を受ける。

38歳? シンガポールで高熱を出して寝込んでいたとき火事になり持ち物をすべて失ったトゥアンは二ヶ月後にマラッカの家族の元に戻る。その頃マラッカはイギリスの支配に戻っていた。マラッカではヒューズ氏の元でカレッジの仕事に就く。しばらくしてナニンの支配者とイギリスの間で戦争が起こりマラッカは大混乱となった。

43歳 妻に先立たれたアブドゥッラーは家族を連れてシンガポールに移住する。この前年にナニンのスルタンが死去。

50歳 アブドゥッラーは本書の第一巻を書き上げる。この年、総督バタワースがシンガポールに着任する。

52歳 本書が出版される。

57歳 メッカ巡礼の旅に出発。旅先で死去。