東洋文庫 板橋雑記(はんきょうざっき) 余懐 (1690頃)

  明の太祖が首都を金陵(南京)に置き繁栄を極めた頃、城外を流れる秦淮の両岸には娼館が並び画舫(屋形船)が妓女たちを乗せ管弦の調べが流れる中、大夫たちは船遊びに興じていた。だが永楽帝による北京への遷都がなされると南京はだんだん寂れて行く。明末になると李自成の乱も起こってくる。この書は青年期に旧院で遊んだ余懐がその晩年に当時の旧院の様子と名妓達を紹介したものである。

    旧院
  妓館が魚の鱗のようにぎっしりと軒を連ねている様は圧巻である。そのうちの一軒の階段を登り座敷に入るとおかみが迎えてくれ、さらに奥に入るとかむろが芸妓の手を取って出てくる。座に着くとしばらくして山海の珍味が並べられ音曲が流れ出す。その後に床に入るのである。美しい芸妓が流し目でしなだれかかってくるのでエリート達も色香に溺れてしまう。

    哀歌
  金陵は繁華の地であり、旧院は華麗の巷であるから、貴族の子弟や瀟洒文人たちが往来して遊び楽しみ、馬は遊べる竜のごとくに長い列をなし、車は相連なるのである。その中にあって、楼台に風の吹き、月の照る眺めの佳さから、徳利に盃、糸竹の道、さては美しい童子や馴染みの客、雑伎から芝居の名優に至るまで、争って媚を売り、美しさを競い、引きもきらずに往き交う。

  枝垂れ柳の樹かげに、玉もてつくれる酒壺を並べ、秋には笛の頻りに吹くのが聞こえ、春には鶯の囀るのを、ふと耳にしたりすると、唐の宗璟(ソウエイ)のような石部金吉でさえ、梅花の詩でも作らずにいられないのである。

    王月
  王月はあざなを微波という。母親は三人の娘を生んだ。長女が月で、次女が節、末娘を満といい、いずれも器量よしであった。中でも月がいちばん才気があり、美しくもあった。お化粧が上手で、背丈はすらりとして玉を立てたようであり、歯は雪のように白く、眼元の涼しい女であった。そしてあやしいまでに艶っぽいところがあったから、評判は高貴な人たちの間まで広く知れわたっていた。

  余懐は旧院の最盛時の名妓の朱斗児、徐翩翩、馬湘蘭たちとは時代が違い会うことが出来なかったと言い、とりあえず自分の知っている名妓を書き記している。二十人あまり記されていた。創作っぽいのもある。