失われた時を求めて (130)

ジョルジュ・サンドのフランソワ ・ル・シャンピという本についてかなり難解な意味づけを行なった後、一般的な文学論の談義をしている。以下引用文。(吉川一義訳)

《それゆえ「さまざまな事物を描写する」だけに甘んじ、その事物の輪郭や外観の貧弱な一覧を提供するだけの文学は、写実主義と呼ばれているにもかかわらず、現実から最も遠い文学であり、われわれを最も貧しく、最も悲しくする文学である。なぜならこの手の文学は、われわれの現在の自我と、事物のエッセンスが保存されている過去との、さらにはそのエッセンスを新たに味わうよう事物がわれわれに促してくれる未来との、あらゆる交流をいきなり断ち切ってしまうからだ。芸術の名に値する芸術が表現すべきは、このエッセンスに他ならない。》

で、結局この本のもつ意味についてこういう結論に導いている。

《つまり、コンブレーの私の部屋で、もしかするとわが生涯で最も甘美でまた最も悲しい夜にはじめて見つめた書物であると同時にーーその夜、残念なことに私は(それは神秘につつまれたゲルマント家の人たちが私にはとうてい近づきえない存在に思われた時期である)、両親からはじめて諦めをひき出し、その日から私の健康と意思は衰え、困難な責務を放棄する私の気持ちは日ごとに募るばかりだったーー、私の昔日のさまざまな思考上の模索ばかりか、私の生涯の目的までが、もしかすると芸術の目的までが、突然このうえなく美しい光に照らし出されたこの日、まさにこのゲルマント家の書斎で再発見された書物にたいしてである。》

たいへんわかり易く言いたいことをズバッと言った後、プルーストは自己中な付け足しを述べつづけるという悪い癖がある。

《もっとも私は、(以下省略)》