東洋文庫 近世畸人伝 (1790)

短い伝記のようなものや説話のようなものが混在している。一部を紹介する。

《内藤平左衛門

関東のならひ、貧民、子あまたあるものは後に産せる子を殺す。是を間曳といひならひて、敢えて惨ことをしらず。貧凍餓に及ばざるものすら、倣ひて此事をなせり。官の教あれども尚しかり。然るに陸奥白川の傍須加川といへる所に、内藤平左衛門といへる豪農これを歎きて、年毎に縁を求て、間曳んとおもふもの有ときけば、其養べき財をあたへて救へり。もと米価賎しき所なれば、多分の費にはあらず、と自はいへりとなん。此人、篤実類なくて学を好めり。されば是のみならず、人を救ひ、あるひは道橋を造り慈悲を行ふこと多ければ、領主も賞し給ひて苗字帯刀をも免され、士に准らへらるゝといふ。身まからんとせる時まで、孝経を枕辺に離たず、此救ひの業も世々守るべきよしを遺言せしかば、今其孫の代に及びても猶もとのごとく、しかもつゞきて篤実の人なりとかや。或僧この慈心を聞て、吾等の門を建ん施財をもとむるに、その人笑ひて、吾はうれへを忍びぬ故に救ふなり。寺の門なきは何かはくるしからん、といへりとぞ。凡世の富有の者の所為に異なり。》

《隠士石臥

石臥、若きほどは長野采女と名のりて、真田伊豆守信幸朝臣に仕へたり。剣術の諸流を極め、手かくこと大かた能書にて侍りし。神道家に立いりてみちをたふとみ、禅教の学に深く、歌林さへ遊びてよめるうた多く侍りしが皆忘れたり。たまたま記憶せしとて、東湖禅師の唱られ侍りし。

みよしのはさくらの外に峯もなし花やつもりて山となりけん

人家にて庭のさくらを、

一木こそのどかにはみれ咲つゞくやまは花より心ちるもの

隠遁の後は左右軒と号しける。正徳三年より二十年ばかりあなた、東海道沼津にて身まかりぬ。七十にてありける。もとより隠遁の志深ふかく、妻子ももたで侍りけるとぞ。