あき子はついにピアノ教師のイワンと情事を行うようになる。それと同じ頃、孝介はある企てを実行する。
《明るく点る灯の下をくぐって、料亭花の家の広い玄関に、黒い細身の蛇の目傘をすぼめて入ったのは、梅香だった。うすい藍地に白の渦巻きの流れる衣裳が、上背のある梅香を一層引き立たせている。傘の雫を軽く切り、
「春の雨ねえ、こぬかのような雨よ」 と、ちょうどそこに立っていたおかみに言う。
「春雨じゃ、ぬれて行こう、というところね」 おかみは肉付きのよい胸をそらして、かすかに笑う。梅香は敷台に上がって、
「いつもごひいきに」
と、折り目正しく板の間に両手をつく。》
ドラマの実写を見ているような見事な描写である。孝介は芸者を引こうとしているようだ。
《「実はね、札幌に一軒、家があるんだ。ちょっといい家でね。時価一万円はするだろう。年に何度か滞在するだけじゃあもったいないからねえ。ちょっとした小料理屋をやってみたいと思ったまでだがね」
その澄んだ深々とした目が、まっすぐに梅香に注がれた。梅香も真顔になって、
「まあ、夢のようなお話ですこと。でも、芸者の身の悲しさで、一度も情を重ねたことのないお方に、急にそうおっしゃられても、何かこう雲の上を歩くみたいで・・・・」
「そうかねえ、君、男と女が寝たところで、どれほど真実が交わせるものか。そんなことは、こっちより君たちのほうが、先刻承知のことじゃないのかねえ。こうして、酔いもせずに、言ってみれば素面で話し合う方が、本当の人間と人間のつき合いだと、わたしは思っているのだが・・・・」》